開催にあたって

水俣展開催趣意書

 公害の原点といわれる水俣病が南九州の片隅で発見されたのは、経済白書が「もはや戦後ではない」と謳たった 1956年のことでした。以後、被害者の運動やさまざまな裁判、調査、研究によって水俣病事件は少しずつ明らかにされてきました。それは、直接の被害者でも加害者でもない私たちにとって、この社会を考える上で、たいへん示唆に富むものでした。

 加害企業チッソの技術力は、世界の化学工業界の中でもトップクラスにありました。その生産過程で副生された原因物質のメチル水銀は、自然界にはまず存在しないものであり、わずか耳かき半分ほどで人を死に至らしめる猛毒でした。水俣湾をつつむ不知火海は、沿岸漁民の主食ともいうべき魚介類の宝庫でしたが、ここに注ぎ込まれたその総量が一億国民を二回殺してもなお余りあるほどに至るまで、チッソの生産活動はつづけられました。

 原因をそれと知りながら隠蔽しつづけたのはひとりチッソに限りません。近代的民主国家を標榜するわが国行政は、同じ工程をもつ他企業への問題の波及、化学工業界への打撃、ひいては工業化政策全体の遅延を恐れて加害企業を庇護しました。新潟水俣病の発生は、いわば必然だったのです。その一方で、排水停止と謝罪を求める被害民に対しては、警察力をもって応えたのでした。困窮の極みにあった被害民に対して、市民もまた白眼をもって接し、革新勢力や宗教家さえ救いの手を差し延べようとはしなかったのです。

 その後も行政は、患者補償金支払いの継続確保という名目でチッソへの格別の融資を続行する一方、医学界の権威を動員して病像を狭く限定することによって、万を数える被害民の苦痛を否定しつづけてきました。

 地球環境保全が声高に叫ばれるに至ってようやく成立した未認定患者の救済策をみても、この構造に本質的な変わりはありません。これらの事実から、企業、国家、科学、ひいては現代社会全般のありようを再検討しなければならないことに気付きます。

 しかし、水俣病の発生原因それ自体であるチッソの生産活動およびこれに類する経済活動・技術開発によって、現在の化学工業の成長と日本の経済的発展、「便利で豊かな生活」がもたらされたのは否定しようもない事実です。そしてそれはこの国だけのことではありません。世界中が、数えきれないほどの“水俣病”を生み出しながら近代工業化、産業の高度化を競っています。こと水俣病から目を転じても、この「近代科学技術による工業生産を基盤とした民主主義国家システム」がもたらす多くの矛盾や危機の具体例は、枚挙にいとまがありません。しかし、それを乗り越えるための具体的な方法については、誰ひとり解答をもっていないという状況の下、社会の病状は静かに進行しています。最大多数の最大幸福の追求が、少数者への苛烈な抑圧を生みだすのみならず、結果として多くの現代人の内に、人としての存在の希薄化と関係性の腐食をもたらし始めています。

 21世紀、日本。いま私たちは、このような時代の中で生きているのです。

 思いおこせば、壮絶な病苦と疎外、それゆえの貧困の極みにありながら、果敢に声を上げていった方々のやさしさと巨きさによって、私たちは支えられ援けられてきたのではなかったでしょうか。そうした方々の言葉に改めて耳を傾け水俣病を問い直すことは、私たちがこれから先、どのように生きていくかを考える上で少なからぬ果実をもたらすことでしょう。水俣病に関するすべての表現、研究、記録をひもとき、状況に照らしてこれらを再構築し、今を生きるすべての人びとに伝えたいのです。

 水俣病発生の公式確認より半世紀をへて「水俣展」というべきものの開催です。この会場によみがえる水俣の言葉や表情、風景の一片でもご記憶の片隅にお加えいただければ幸いです。

水俣フォーラム

0 件のコメント:

コメントを投稿